遠く離れた土地で

最近今まで住んでいた土地を離れて異国の地で生活をしている。新しい環境、全く違う街並みというものはとても面白いもので、自分の中の価値観がまた一つ変わった気がする。

今まで小学校から大学までで何時間と英語の勉強はしてきたけど、全く役に立たない、というか公用語が英語でない。だが1からの言語の習得をしなければならなかったのは意外と大変だったかと言えば、そうでもなかった。いや、習得したわけでもないのに楽だったと言い切るのは早計かもしれないけど、実践を通した言語学習が、机に向かって勉強するそれに比べれば遥かに効率がいいものだということは理解できた。

日本の英語の授業は基本文法と単語の組み合わせで英文を日本文に、日本分を英文に直す作業が半分以上占めているように思う。これが問題点で、この授業を通して生徒は単語や語彙の日英の対応を1対1マッピングで暗記しようとしていることがこの問題点のもたらす大きな誤解である。

あまりうまくは言えないけど日本語の「こんにちは」は「こんにちは」であり「ciao」は「ciao」なのだ。時々僕が日本人だとしると、こんにちは、さよなら、ありがとう、を言ってくれる店員さんがいるのだけど、彼がさよならの本質を理解して言っているようには思えない。彼の意識では「ciao」程度にしか思っていないように思う。今までの僕の経験ではさよならとお客に言う店員は見たことがないし、これからも彼ら以外に合うことはないだろう。結局彼は誰かに教えられた(もしくはどこかで偶然知った)この知識を使っているに過ぎず、彼にとがめられる部分は全くない。このとき思ったのは、彼は「ciao」もしくは「arrivedelci」に「さよなら」という言葉をマッピングさせただけなんじゃないかということと、僕も同じようなことをしているんじゃないだろうかということだった。たとえば先ほどから何度も出ている「ciao」という言葉はとても便利な言葉で、朝昼晩使える。これを日本語に変換しようとすると確実に誤差が生じるだろうと思う。冒頭で述べたとおり「ciao」は「ciao」であり「ciao」以外の何物でもないのだ。だから僕がやるべきは積極的に使い耳にし、「ciao」がどのような状況で使われるのか、誰が言っているのか、どう変化するのかを知ることで少しでもその語のバックグラウンドを理解しようとするべきなのである。

言語を理解することは相手の文化を理解することであり、それなしに言語の本質を語るのはとても難しいことだ。ということを書きたいがためのエントリーだったけど、上手く言語化できなかったので、ここらで締めよう。駄文はどこまで行っても駄文なのだ。